【了仙寺に!】幕末日本開国の舞台でペリーのイメージ変わった話

私は日本の歴史で幕末が一番好きです。

幕末の舞台になった場所を訪れることで、心がおどります。

長く続いた鎖国が解かれ、今のグローバル化に進んでいくきっかけだと考えると、開国の舞台になった場所はワクワクします。

そんなワクワクを近々体験したのが伊豆下田にある「了仙寺」

何となくボヤッとしていた歴史の勉強も兼ねて行ってきました。

*取材は緊急事態宣言以前に行われたものです。

日米下田条約締結地:了仙寺とは?

了仙寺は日米下田条約締結の地として知られています。

ペリーとか黒船がやってきて開国を迫られた江戸幕府が横浜で日米和親条約を結んだことはよく知られている話ですが、その条約で下田と箱館(函館)の開国を許しています。

それをきっかけとし、ペリー一行は下田へくるようになり、この了仙寺が応接所として使われたそうです。

そして、日米和親条約の付録として日米下田条約が調印されたのが、この了仙寺

少し、前置きが長くなりそうなので、実際に写真でご案内していきます。

いざ、了仙寺へ!!

了仙寺は外から見るとあまり観光地っぽくありません。

外観はこんな感じ

ただ売店もあるので、観光スポットなのでしょう。

やっぱり!これがあるということは観光スポットですね!

了仙寺には「黒船ミュージアム」という黒船や開国に関する資料が並ぶ資料館があるそうです。

こちらは後ほど。

あの有名な絵が了仙寺に!?

敷地に入ってすぐに本堂があります。

こちらが本堂

了仙寺のちょっとした歴史も書かれています。

国指定史跡だそうです。

こちら本堂の中

そしてこちらが教科書で見た記憶がある絵

「安政元年(1854年)ペリー提督黒船陸戦隊調練の図」

と書いてあります。

教科書で見たことあるような気がしませんか?

実は、私も何となくそう感じるだけで実際はわかりません。

ただ言えることは、見たことありそうな気もするということ。

似たような絵もたくさんあるみたいですしね!

ちなみにこちらは版画で、原画はアメリカ海軍兵学校にあるそうです。

おみくじやインスタスポットもちゃんとあります。

実は了仙寺にきたきっかけが地元のカフェのマスターに勧められたからなのです。

幕末が好きという話になり、下田なら「了仙寺」と「宝福寺」へぜひと勧めていただいたからです。宝福寺についてはまた別の機会にご紹介します。

この了仙寺はジャスミン寺として有名で、5月頃には「香りの花まつり」が開催されるそう。

そう今この時期です。残念

黒船ミュージアム(MoBS)で学べたこと

次は了仙寺に隣接している黒船ミュージアムへ

かなりモダンな作りです。

入ってすぐペリー提督が出迎えてくれます。

幕末の日本人と外国人でしょうか。

館内入り口はこんな感じです。

提督、かなりのサイズ感です。一緒に写真が取れます。

ショップもあります。

幕末、ペリーグッズがたくさん。

御朱印もあるそう。

と、ここから中をお見せしたかったのですが、ここから先は写真NG!

ということで、文章で出来る限りお伝えします。

黒船ミュージアムで学んだこと

500円で入館できるのですが、入ってすぐに30分ほどの動画を見ることができます。

歴史の資料館によくある大スクリーンでみるタイプのものです。

その後、30-40㎡ほどのスペースが2フロア分あり、資料や解説が並んでいるといった、少々こじんまりとしたミュージアムですが、学べることがたくさんあったのでまとめました。

了仙寺が選ばれた理由がわかった

了仙寺が日米和親条約締結のゆかりの舞台となったのは、下田で朱印地として幕府との関係も深く、かつ、大きな寺院だったことが理由としてあるそうです。

ペリーのイメージが少し変わった

アメリカがなぜ鎖国中の日本に来たのかというと理由は3つあるそうです。

  • 捕鯨(鯨油)
  • 漂流民の保護
  • 日本との交易

ただ単に一方的にせめて来て、高圧的に不平等な条約を結ばせたというイメージとは実際は少し異なるという解説がありました。

黒船は太平洋渡って来たわけでなかった

黒船四船が浦賀に来たというのはよく聞く話でしたが、私はてっきりアメリカから太平洋を渡って日本に来たのかと思い込んでいましたが、実際は、ニューヨークからヨーロッパ、アフリカ、中国を経由して日本に来ていたそうです。

日米最初の為替レートの場所だった

龍馬伝なんかでもちらっと出てくる日本初の為替話ですが、日米での初の為替レートが決められたのもこの了仙寺

日本の一分銀とアメリカの1ドルの銀貨を同じ価値としていて、アメリカの銀貨は日本では銀の塊とみなされたそうです。

龍馬伝では日本が大損する為替といっているシーンがありますが、そうでもないのかったのかな。

下田は当時欧米で一番有名な街だった

開国の地として条約締結により、鎖国以来初めて外国人が自由に歩ける街となった下田

アメリカに続いて、ロシア、フランス、イギリスなどの船も次々と下田に上陸したのです。

当時の欧米では、下田は日本で最も有名な街となったそう。

今ではあまり外国イメージがあまりない下田ですが、当時は今で言う六本木のような感じだったのかなあ。

まとめ

ざっくりとですが、黒船ミュージアムによって開国のイメージが少し変わった気がします。

当時の人が書いたペリーの絵(こちらは教科書に乗っていた記憶がちゃんとある)で化物のように書かれたものがありますが、そういうものによって勝手にペリーのイメージを作ってしまっていた私ですが、実際はもっと違っていたのかもしれません。

ここから外国人が日本を本格的に日本を知ることとなっていったのか。

その原点がある意味この下田の了仙寺だったのかもしれません。

行って大満足でした!